竹中半兵衛は戦国時代の武将で、豊臣秀吉の軍師として活躍しました。
秀吉の天下統一における数々の戦で優れた軍略を立案し、勝利に大きく貢献しました。
そんな竹中半兵衛の雑学についてまとめました。
※諸説あるものや、逸話が含まれます。
竹中半兵衛の雑学
豊臣秀吉を支えた天才軍師
半兵衛は敵の戦力を的確に分析し、状況に応じた最適な戦略を立案する能力に長けていました。
わずかな兵力で大軍を打ち破るなど、常識にとらわれない奇抜な戦術で、数々の戦を勝利に導きました。特に敵の心理を読み、巧みに罠を仕掛ける戦術を得意としていました。
半兵衛は豊臣秀吉の性格や能力を理解して的確な助言を与えることで秀吉の決断を支え、天下統一に大きく貢献しました。
両兵衛
竹中半兵衛と黒田官兵衛は同時期に豊臣秀吉に仕えた軍師でした。
両者とも優れた軍師であったため「両兵衛」と称されました。
半兵衛は奇抜な戦術を得意としたのに対し、官兵衛は情報分析に基づいた戦略を得意としました。
両者は互いの才能を認め、尊敬し合うライバルのような関係でした。
半兵衛と官兵衛の関係を垣間見れるエピソードとして、以下のようなものがあります。
官兵衛が荒木村重によって有岡城に幽閉された際、織田信長は官兵衛が裏切ったと勘違いし、人質に出されていた官兵衛の息子を殺すように命じましたが、この時半兵衛は「官兵衛は裏切るような人間ではない」と信じ、ひそかに官兵衛の息子を自身の領地に匿いその命を救いました。
体が弱かった
半兵衛は幼い頃から体が弱く、生涯を通じて病に苦しみました。
しかし、病に伏してもその才能は衰えることなく、秀吉に助言を与え続けたといいます。
秀吉の中国攻め(VS毛利家)の最中、1579年に三木城を攻めているさなか陣中で亡くなり、
36歳という若さでその生涯を終えました。死因は「肺の病気」とされています。
美しい容姿
半兵衛は女性のように美しい顔立ちをしていたと伝えられています。
幼い頃から病弱であったためか、体格も華奢で色白であったそうです。
稲葉山城乗っ取り事件
半兵衛は秀吉に仕える前は美濃国の斎藤龍興の家臣でした。
しかし、龍興の悪政に対して強い危機感を抱いた半兵衛は、わずかな手勢で稲葉山城を乗っ取るという行動に出ます。
この事件は、龍興が酒色に溺れ、政治を顧みなかったため、家臣たちの信頼を失っていたことが原因でした。半兵衛は龍興を諫めるために、あえてこのような行動に出たと考えられています。
城を乗っ取った後、半年ほどで龍興に城を返還し、半兵衛は斎藤家を出奔しました。
竹中半兵衛の年表
- 1544年:美濃国(岐阜県)に生まれる
- 1560年:家督を相続し、菩提山城主となる
- 1564年:稲葉山城奪取事件
- 1567年:羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に仕える
- 1570年:姉川の戦い(織田・徳川VS朝倉・浅井)に参戦する
- 1573年:小谷城の戦い(織田・徳川VS浅井)に参戦する
- 1575年:長篠の戦い(織田・徳川VS武田)に参戦する
- 1578年:中国攻めに従軍する
- 1579年:陣中で病没する