直江兼続ってどんな人?直江兼続の雑学を紹介

上杉景勝と直江兼続 人物の雑学

直江兼続は、戦国時代から江戸時代初期にかけて上杉家に仕えた武将です。
主君の上杉景勝の右腕として、内政・外交・軍事の全てにおいて才能を発揮しました。
そんな直江兼続の雑学についてまとめました。

直江兼続の雑学

天地人

上杉家の名君「上杉輝虎(後の上杉謙信)」は直江兼続という人間を「天地人」という言葉で表したと言われます。

この「天地人」とは、中国の孟子(もうし)という哲学者の言葉で、何かを成し遂げる時に必要な3要素の頭文字をとったものです。

  • の時:チャンス、タイミング
  • の利:地理的な優位性
  • の和:周囲の人の協力、団結

直江兼続はまさに、この3要素を兼ね備えた武将でした。
また、この言葉は直江兼続の人生を題材としたNHKの大河ドラマの題名にも採用されています。

「愛」の前立て

「前立て」とは、兜につけられた装飾のことです。ただの装飾ではなく、戦に勝つための願掛けの意味も込められています。例えば悪的を切り払うとして当時の人々から信仰された「不動明王の剣」は縁起が良いものとされ、多くの武将の兜の前立てに用いられました。

そして、直江兼続の兜の前立てには大きな「愛」の字が用いられました。
この前立ては他の兜には類を見ない奇抜さで、現代においても人気の兜となっています。

直江兼続が「愛」の字を前立てに選んだ理由については諸説あります。

  • 染明王への信仰:煩悩浄化、福徳を与える仏として兼続が信仰していたからという説。
  • 宕権現への信仰:「勝軍地蔵」と呼ばれた愛宕権現を信仰していたからという説
  • 民の精神   :兼続は領民を大切にしており、その愛情表現からという説

文武両道

幼い頃から聡明で利発であったと言われる兼続は、上杉謙信の姉である仙桃院(せんとういん)に才能を認められ、その息子である上杉景勝(うえすぎ かげかつ)に仕えました。

景勝とは幼少の頃より兄弟同然に育てられたと言われています。上杉景勝の養父・上杉謙信も学問に対して熱心であったことから、学問を志す上で恵まれた環境にありました。

兼続は武勇に優れるだけでなく学問や文化にも造詣が深く、特に漢学や書道に秀でており、多くの書状や詩歌を残しています。

義の武将

兼続は義理人情に厚く、主君である上杉景勝への忠義を貫き、生涯にわたって支え続けました。
また、領民や家臣に対しても深い愛情を持ち、彼らの生活を安定させるために尽力し人望を集める人でした。

質素倹約を重んじており、自身の地位が高くなっても常に質素な生活を送ったと言われています。
私欲よりも公を優先する姿勢は多くの領民に感銘を与えましたと言われます。

優れた内政手腕

兼続は「与板城」(よいたじょう・新潟県長岡市の城)の城主を務めていた頃、新田開発や道路整備など城下の発展に力を注ぎました。
鍛冶産業の振興にも尽力し、後の与板地域の伝統工芸品となる「越後与板打刃物(えちご よいたうち はもの)」の地盤を作り上げました。

また、上杉家の家老(かろう・家臣団の最重要職)として領地の経済発展や民政の安定に尽力しました。「青苧(あおそ)」と呼ばれる衣料用の繊維を増産し、布を織り上げて京で売ることで莫大な利益を上げました

関ヶ原の戦いの後は減封された米沢藩の立て直しに尽力しました。
治水事業で川の氾濫を抑えるための堤を設け、新田開発を推進し石高を増加させることで、
米沢藩の経済を復興させ領民の生活を安定させました。

直江兼続の人生

  • 1560年:越後国(新潟県)坂戸城に生まれる
  • 1578年:「御館の乱」発生(おたてのらん・上杉謙信の後継を巡る内部抗争)
  • 1581年:直江家の家督を継ぐ
  • 1590年:「小田原征伐(豊臣VS北条)」参陣
  • 1598年:上杉家が会津へ移封される
  • 1600年:「直江状」送付(兼続が徳川側に送った書状。上杉家の謀反を疑う家康をきっぱり否定する内容で、家康の怒りを買い、会津征伐につながったとされる)
  • 1600年:会津征伐(徳川VS上杉)
  • 1600年:関ヶ原の戦い(徳川家康率いる東軍VS石田三成率いる西軍) 東軍勝利
  • 1601年:関ヶ原の戦いで東軍に協力しなかったため、上杉家が米沢へ減封される
  • 1614年:大坂冬の陣(豊臣VS徳川)参陣
  • 1615年:大坂夏の陣(豊臣VS徳川)参陣
  • 1619年:死去
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