前田利家ってどんな人?前田利家の雑学を紹介

前田利家像と金沢城 人物の雑学

前田利家(まえだ としいえ)は戦国時代に活躍した武将です。
槍の名手として織田信長と豊臣秀吉の側近として活躍しました。
そんな前田利家の雑学についてまとめました。
※諸説あるものや逸話が含まれます。

前田利家の雑学

問題行動が多かった

利家は幼い頃から織田信長に小姓(こしょう・雑用係)として仕えていましたが、性格は短気で喧嘩っ早く、多くの問題があり「うつけ者(バカ者)」と呼ばれていたようです。

織田信長のお気に入りの小姓を斬ってしまったあげく、織田家から出奔(逃げ出すこと)したり、
出奔したかと思えば、織田軍の戦に無断で参戦するなど大胆な行動を起こしました。

槍の名手

そんなうつけ者の利家ですが、武勇は優れており数々の戦で武功をあげました。
特に槍の腕前は群を抜いており、6m以上にも及ぶ長槍を好んで使用したと伝えられています。
「槍の又左衛門」という異名を持ち、戦場では常に先頭に立って敵陣に切り込む勇猛果敢な武将として知られていました。

前田利家像(尾山神社)

加賀百万石の大名

利家は加賀藩の基礎を築き、「加賀百万石」と呼ばれる大領を治めました。

百万石の大名となった背景には、織田信長と豊臣秀吉という二人の天下人に仕え、数々の戦で功績を挙げたことが大きく影響しています。

信長の時代には、越前一向一揆の鎮圧などで武功を重ね、能登国の領主となりました。
本能寺の変後は秀吉に従い、佐々成政との戦いなどで秀吉軍の主力として活躍しました。
これらの功績により、加賀国を含む広大な領地を与えられ、百万石の大名へと成長しました。

また、利家は与えられた領地において、治水事業や新田開発を積極的に行い、領内の安定と発展に尽力しました。妻のまつと共に内政や外交においても手腕を発揮し、前田家の基盤を固めました。

金沢城
金沢城

正室のまつ

利家と正室のまつは幼馴染であり、従兄妹同士でもありました。二人の夫婦仲は非常に良好で、互いを深く信頼し合っていたと言われています。

まつは夫である利家を献身的に支え、前田家の発展に大きく貢献しました。また、多くの子供たちを育て、前田家の繁栄の礎を築きました。

石川県金沢市にある尾山神社には、前田利家とまつが祀られています。

前田利家の年表

  • 1539年:尾張国荒子に生まれる
  • 1551年:織田信長の小姓となる
  • 1552年:初陣
  • 1559年:信長の小姓を斬り、信長の不興を買い出奔
  • 1560年:桶狭間の戦いに無断で参加
  • 1561年:森部の戦いに無断で参加し、織田家への帰参を許される
  • 1569年:前田家の家督を継ぐ
  • 1575年:越前府中三人衆となる
  • 1581年:能登一国を与えられる
  • 1582年:本能寺の変後、柴田勝家に従う
  • 1583年:賤ヶ岳の戦いで豊臣秀吉に降伏、加賀・能登を与えられる
  • 1584年:末森城の戦いで佐々成政を破る
  • 1590年:小田原征伐に従軍
  • 1598年:豊臣秀吉の死後、五大老となる
  • 1599年:大坂にて死去
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