6月21日は本能寺の変が起きて、織田信長がこの世を去った日です。
この歴史的事件について紹介します。
「本能寺の変」について
本能寺の変は、1582年6月2日(新暦6月21日)に明智光秀が主君・織田信長に謀反を起こし、京都の本能寺で信長を自害に追い込んだ事件です。
信長が少数の供回りとともに本能寺に宿泊していたところを、突如として光秀が本能寺を包囲し奇襲攻撃を仕掛けました。
この時の信長の動きについては謎が多い部分なのですが、おそらくある程度の抵抗はあったと思われます。ですが、戦力の差を覆すことはできず信長は自身の運命を悟り「是非に及ばず(しょうがない)」という言葉を残して自ら命を絶ちました。
また、信長を跡継ぎであった息子の信忠もこの時に自害してしまいました。
これにより織田政権の復活は絶望的になります。
日本史上屈指のクーデターであり、歴史の転換点となりました。
本能寺は信長が京都に訪れる際にいつも泊まっていた場所でした。
本能寺の変が起きた時、信長が宿泊していた理由(京都に来た理由)は以下が挙げられます。
- 天皇から役職(太政大臣・関白・征夷大将軍)への就任の打診があり、その返答のため
- 羽柴秀吉の中国攻め(毛利攻め)の援軍に向かうため
「本能寺の変」が起きた原因
明智光秀が謀反を起こした理由に定説はなく、現在も盛んに議論が行われています。
主な説としては、
- 怨念説:信長からの度重なる侮辱や冷遇に対する不満があったから
- 四国説:光秀が主導していた四国政策が信長の鶴の一声で覆されたことの不信感から
- 野望説:純粋に天下統一の野望があり、信長の本能寺宿泊を好機と捉えたから
などが挙げられます。
「本能寺の変」が後世に与えた影響
本能寺の変により、織田信長とその後継者・信忠が相次いで死去し、織田政権は一時的に空白状態となりました。
これをチャンスとみた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)は中国攻めを即座に中止し、全軍で京都に引き返すという「中国大返し」を行い、信長の仇討ちと称して光秀の首を狙います。
そして、山崎の戦いで光秀を討ち取ると、秀吉が台頭することになり、豊臣政権の成立へとつながります。
本能寺の変が起きた日を調べると「6月2日」という結果が出てきます。
なぜ6月21日と差が生まれているのかというと、それは暦の違いによるものです。
6月2日は当時日本で使用された旧暦(太陰太陽暦)の日付です。
これを現在使われている新暦(グレゴリオ暦)に換算すると6月21日なります。
ちなみに、日本では明治5年(1872年)の11月まで旧暦が使われていました。
出典:国立国会図書館「日本の暦」 (https://www.ndl.go.jp/koyomi/)