朝倉義景の雑学【北陸に一大文化圏を築いた武将】

朝倉義景のイラスト

朝倉義景あさくらよしかげは戦国時代に活躍した大名です。
文化を重んじた人物で福井県の一乗谷に華やかな城下町を築きました。
一方で政治・軍事には疎く、朝倉家滅亡を招いた人物でもあります。

この記事では

  • 朝倉義景の人物像・エピソード
  • 朝倉義景の代で朝倉家が滅亡した理由
  • 朝倉義景の年表

などの雑学を歴史初心者にもわかりやすく解説します。

※諸説あるものや逸話が含まれます。

朝倉義景の雑学

文化を大切にした人物

朝倉義景は、戦いよりも文化を好む人物であったと言われています。

公家(朝廷に仕える人々)や文化人との交流を好み、自らも文化的な生活を送っていました。
そのため、朝倉家が治める越前国(福井県福井市)には全国から多くの文化人や知識人が集まることになり、越前国は大いに繁栄しました。

一方で、戦いや軍事的な駆け引きは積極的ではなかったため、戦国時代の目まぐるしい勢力変化に対応できず、後に衰退の一途を辿ることになります。

軍神「朝倉宗滴」の存在

義景は16歳という若さで家督を相続したため、政治や軍事を重臣の朝倉宗滴に任せていました

朝倉宗滴あさくらそうてきは戦国時代初期から活躍した人物で、朝倉家の中でも特に武勇・知略に優れた人物として世に知られ「越前の軍神」と呼ばれ朝倉家の大黒柱となっていました

しかし、そんな宗滴も病には勝てず、義景が23歳の時にこの世を去ります。
義景は宗滴を失ったことにより、自ら政治・軍事を動かすことになりますが、これまで宗滴に任せてきたことをいきなり出来るはずもなく、朝倉家は弱体化していくことになりました。

滋賀の大名「浅井長政」との関係は?

朝倉家と浅井家はかねてより同盟関係でした。

1570年に織田信長が朝倉家の領地に侵攻した際、信長とも同盟関係にあった浅井長政は、信長を裏切って背後から攻撃を行います。裏切りの理由は諸説ありますが、信長よりも朝倉義景との同盟関係を重視したという説があります。

この事件の後、織田信長と朝倉義景・浅井長政は本格的に対立を深めることとなり、
同年、織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍による「姉川の戦い」が勃発。
朝倉・浅井連合軍は奮戦しますが敗北し、その後両家は滅亡の一途を辿りました。

優柔不断が招いた朝倉家滅亡

義景は戦よりも文化を好んだことや、政治や軍事にかかわる重要な判断を重臣の朝倉宗滴に任せていたことから、自身が朝倉家を率いる立場になった後も優柔不断で的確な決断を下せなかったとされます。

特に義景の判断ミスにより、朝倉家滅亡へと繋がったとされる場面が2つあります。

一つ目は「足利義昭あしかがよしあき(室町幕府代15代将軍)の上洛要請に応じなかったこと」です。

当時、近畿圏では三好家が足利将軍家を抑えて政治の実権を握り、足利家は窮地に陥っていました。
義昭は地方の有力な大名と共闘して上洛戦を行い、足利家の威信を取り戻そうとしました。
そこで義昭が最初に頼ったのが朝倉家でした。

義景は義昭を丁重にもてなしたものの、上洛戦については応じることはありませんでした。
義昭は朝倉家に頼ることをあきらめ、代わりに織田家率いる織田信長を頼ります。
信長は上洛を引き受け、義昭と共に近畿を平定しますが、その後近畿内でも織田家の支配を強める事態となり、朝倉家を含めた周辺諸国はピンチに陥っていくのでした。

2つ目は「信長包囲網において、武田信玄の呼びかけに応じず軍を動かさなかったこと」です。

信長が近畿内で支配力を強めると、危機感を持った義昭は全国の大名に信長を抑え込むよう要請し「信長包囲網」を形成しました。そして信長包囲網の筆頭大名であった武田信玄が織田家討伐に動きだします。武田軍は織田家と同盟関係にある徳川家の軍を破り、京へと向かいます。
それと同時に武田信玄は義景に対して、越前国からも軍を派遣するよう要請します。
義景は一応はこれに応じて軍勢を率いて出陣します。しかし、その後に天候や兵士の健康状態などを理由にして戦わずして撤退してしまうのでした。
また、直後に武田信玄が病没し武田軍が撤退したことで、信長包囲網は失敗に終わりました。

結果的に織田信長は近畿圏での支配力を確立し、反抗勢力であった朝倉・浅井家の両家は織田信長の手によって滅亡に追い込まれます。

このように義景の優柔不断さが朝倉家の弱体化、そして滅亡への一つの要因になりました。

義景は無能だった?

ネットの検索キーワードを見ていると、たびたび「朝倉義景 無能」のようなワードが見受けられます。
なぜこのような検索のされ方をするのでしょうか。義景は本当に無能だったのでしょうか。考察してみます。

義景が無能の言われる大きな要因は、北陸に一大勢力を築いておきながらそれを十分に活用することができず、幾度となく好機を逃し、最終的には信長に敗れ朝倉家を滅亡させてしまったことと考えられます。

戦や勢力拡大には消極的であった義景は軍務はすべて重臣の朝倉宗滴に任せていました。宗滴の死後、義景が采をふるうことになりますが、消極的姿勢は健在で大軍を抱えながらも足利義昭の上洛要請や信長包囲網への出兵を渋るなどターニングポイントで動くことができませんでした。

そのような義景の姿勢を見て、家臣たちの義景に対する忠誠は徐々に薄れていきました。
信長に敗れ敗走したのち、家臣の裏切りこの世を去るという悲惨な最後を迎えています。

下剋上の戦国時代において義景の消極的な態度をとったことから、当時の家臣たちや後の人々に「時勢を読めない無能の君主」という評価を下されたのだと考えられます。

逆に、文化面の発展や領国経営には大きく貢献しています。当時のキリスト教宣教師で、後に戦国時代を中心とした日本史を編纂したルイス・フロイスによると、朝倉義景の治めた越前国を「日本で最も主要な国である」と評しています。時代が違えば、義景は名君になっていたのかもしれません。

朝倉義景の城はどこ?現在も残っている?

朝倉義景の城は、現在の福井県福井市の「一乗谷いちじょうだに」という所にありました。
城と言っても、天守閣があるようなザ・城ではなく、大きな館があったというイメージです。
館の周りは城下町が広がり、非常に栄えていたと言われます。

朝倉義景の城は、現在「一乗谷朝倉氏遺跡いちじょうだにあさくらしいせき」という観光地になっています。

一乗谷は朝倉氏が5代、約100年に渡り治めた越前国の政治・経済・文化の中心地として栄えましたが、
1573年に織田信長の侵攻により焼き払われてしまい、その後約400年もの間、地中に埋もれていました

近年の発掘調査によって当時の城下町の様子が明らかになり、現在は武家屋敷や町屋などが再現され
ています。現代において、戦国時代の雰囲気を感じることができる貴重な場所です。

一乗谷遺跡の門
朝倉氏遺跡の唐門(筆者撮影)

遺跡の近くには2022年にリニューアルオープンした「一乗谷朝倉氏遺跡博物館」があり、原寸大に復元された朝倉氏の館や、実際に発掘された遺跡を間近で見ることができます。

福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館 朝倉氏の戦国城下町一乗谷の全体像や歴史的価値を楽しみながら学べます
福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館では、朝倉館の原寸再現か石敷遺構の露出展示、城下の町並みの巨大ジオラマの展示を通して、朝倉氏の戦国城下町の全体像や歴史的価値を楽しみながら学べます。

朝倉義景の年表

  • 1533年: 朝倉孝景(宗淳)の嫡男として生まれる
  • 1548年: 父・孝景の死去により家督を継ぐ
  • 1552年: 将軍・足利義輝を擁護
  • 1565年: 義輝が三好三人衆に殺害される
  • 1568年: 織田信長が足利義昭を奉じて入京、義景に上洛を促されるが拒否
  • 1570年: 信長が越前国に侵攻、金ヶ崎の退き口で窮地を脱する
  • 1570年: 姉川の戦いで浅井氏と共に織田・徳川連合軍と戦うが敗北
  • 1573年: 信長が再び越前国に侵攻、刀根坂の戦いで敗れる
  • 1573年: 一乗谷城を追われ、家臣の朝倉景鏡を頼る
  • 1573年: 朝倉景鏡の裏切りにより自害
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