明智光秀(あけち みつひで)は戦国時代に活躍した武将です。
織田信長の家臣として数々の功績を残しましたが、本能寺の変で主君信長を討ったことで歴史のキーパーソンとして名を残すことになりました。
そんな明智光秀の雑学をまとめました。
※所説あるものや逸話が含まれます。
明智光秀の雑学
出身は岐阜(美濃国)
光秀の出自や幼少期は不明な点が多いのですが、親族が美濃国(現在の岐阜)にいたと言われるため、岐阜出身であったとの説が有力です。
織田家以外にも仕えていた
光秀といえば織田信長に仕えたイメージが強いですが、信長に仕える前は越前国(福井県)の朝倉氏や征夷大将軍の足利義昭(よしあき)にも仕えたとされています。
足利義昭は一時織田信長と協力体制を敷き、室町幕府の再興を目指しましたが、最終的には信長と仲たがいし1573年に京から追放されることになります。その9年後の1582年に有名な本能寺の変が起き、光秀が信長を討つ(自害させる)ことになりますが、もしかしたら昔仕えていた義昭が信長の手によって京から追放されたことが、信長への不信感につながり、ことを起こす原因の1つになったのかも…と想像してしまいます(光秀が信長を討った理由は現在もわかっていません)。
娘はキリスト教徒
光秀の三女、「たま(玉子)」は熱心なキリスト教徒(クリスチャン・キリシタン)でした。当時はクリスチャンになると洗礼名が与えられ、たまは「ガラシャ」という洗礼名を受けていました。そのため一般的には「細川ガラシャ」と名乗ったと言われるのが通説です。
細川ガラシャは、関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍に味方した「細川忠興」の妻となります。
家族思い
光秀は家族思いの武将であったと伝えられています。妻は病弱であったようですが、献身的に支え夫婦仲は非常に良かったようです。また、娘の嫁ぎ先も慎重であったようです。
光秀のお墓
光秀のお墓は滋賀県大津市にある「西教寺」にあります。光秀は西教寺の近くに建つ坂本城の城主であったことから、篤く信仰していました。
また、織田信長による比叡山焼き討ちによって西教寺も甚大な被害を受けましたが、光秀はその復興に尽力したと伝えられています。
「幻の城」ともいわれる坂本城
信長の命により光秀が琵琶湖の湖岸に築城した坂本城ですが、現在その遺構はほとんど残っておらず「幻の城」とも呼ばれています。琵琶湖の水位が低下すると湖底に沈む石垣の一部が姿をあらわすそうが、普段は見ることができません。
しかし、2024年の発掘調査で新たに石垣が発掘されたというニュースもありました。
(※一般公開はされていません。)
多くの謎に包まれた坂本城ですが、今後さらに新たな発見があることを期待したいですね。
明智光秀の年表
- 1516年:美濃国(現在の岐阜県)に生まれる(諸説あり)
- 1556年:斎藤道三と対立した斎藤義龍に加勢。道三を討ち取るが、その後越前国へ落ち延びる
- 1568年:上洛した織田信長と出会い、才能を認められて家臣となる
- 1571年:比叡山焼き討ちで功績を挙げ、坂本城主となる
- 1575年:丹波攻略開始
- 1578年:丹波攻略の拠点「丹波亀山城」を築城
- 1579年:丹波平定
- 1580年:丹波一国を与えられる
- 1582年:本能寺の変で織田信長を討ち取る
- 1582年:山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、落ち延びる途中農民(落ち武者狩り)に討たれる
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