徳川四天王の一人、東国無双と称された戦国時代随一の猛将「本多忠勝」の雑学をまとめました。
※所説あるものや逸話も含まれます。
本多忠勝の雑学
生涯無傷の猛者
忠勝は生涯で57回戦場に出ましたが、傷は一度も負わなかったと言われています。
忠勝が仕える徳川家の相手は武田軍や豊臣軍などの強敵ばかり。
さらに忠勝は殿(しんがり・軍が退却するまで戦場に残り戦う部隊のこと)の役目を務めていたにも関わらず、傷一つ負わなかったことから忠勝の強さがうかがえます。
しかし、そんな忠勝にも一度だけ傷を追ったという逸話があります。
それは忠勝が亡くなる数日前、小刀で自分の持ち物に名前を彫っていたところ、手元が狂って手にかすり傷をつけてしまったというものです。その際、忠勝は「この忠勝も傷を追ったら終わりだな」と呟いたそうです。その言葉通り、数日後に忠勝は病死してしまったと言われています。
武将たちからの評価
忠勝は主君の家康のみならず敵味方含め多くの武将からその武勇に対して非常に高い評価を得ていました。
いくつか紹介してみたいと思います。
- 織田信長:「花も実も兼ね備えた武将」と評価
- 豊臣秀吉:「日本第一、古今独歩の勇士」と称した
- 武田軍 :小杉左近という武将が「家康に過ぎたるもの」と賞賛した
- 福島正則:関ヶ原の戦の際に忠勝の武勇を褒めたたえた
このように忠勝の武勇は当時の日本中に広がり、その人気ぶりがうかがえます。
名槍「蜻蛉切」の伝説
忠勝は戦で「蜻蛉切(とんぼきり)」という槍を使っていました。
この蜻蛉切の名前の由来は「槍の穂先(刃)に止まった蜻蛉が真っ二つになった」という逸話から来ており、切れ味のすさまじさを感じ取れます。
なお、本物の蜻蛉切が静岡県三島市の佐野美術館に収蔵されており、展示会があれば姿を見ることが可能です(展示会の開催状況は美術館HPなどご確認ください)。
派手な鎧兜に隠された機能性
忠勝は「巨大な鹿の角が生えた兜」と「肩から大きな数珠をかけた甲冑」という派手な格好で戦に出ていました。

見た目は非常に重厚感があるのですが、忠勝本人は戦場で身軽に動くことを重視していたため、見た目に反して軽量であったようです。例えば、兜に生える巨大な角は和紙を張り合わせて作成するなど、見た目と機能性を両立させる工夫が施されています。
本多忠勝の年表
- 1548年:三河国(現在の愛知県岡崎市)で生まれる
- 1560年:桶狭間の戦いの前哨戦で初陣
- 1562年:初の首級を挙げる
- 1563年:三河一向一揆に徳川方として参戦
- 1570年:姉川の戦いで活躍
- 1572年:一言坂の戦いで徳川家康の身代わりとなって奮戦
- 1575年:長篠の戦いに参戦
- 1584年:小牧・長久手の戦いで豊臣軍を足止めする活躍を見せる
- 1590年:関東移封後、上総国(千葉県)大多喜城主となる
- 1600年:関ケ原の戦いで活躍
- 1601年:伊勢国桑名藩主となる
- 1610年:桑名で死去