戦国時代の初期に現在の中国地方で活躍し、一代で中国制覇を成し遂げた頭脳派武将「毛利元就」の雑学をまとめました。
※所説あるものや逸話も含まれます。
毛利元就の雑学
戦の経験は200回以上!!
元就は、74年に及ぶ生涯で200回以上も戦を経験したと言われています。
これは、戦国時代の武将の中でもトップクラスの数字です。
数多くの戦を経験する中で、卓越した戦略と戦術を身につけ、中国地方の覇者となりました。
一致団結の秘訣
元就は「養子縁組」を活用した組織強化に力を入れていました。
群雄割拠の戦国時代だからこそ、個の力よりも組織の力が重要になると元就は読んでいたようです。
元就の息子のうち、猛将の「元春」は吉川家へ、頭脳派武将であった隆景は「小早川家」に養子に出され、以降毛利・吉川・小早川は協力体制を取り勢力を拡大していきました。
また実施だけでなく、有能な人材は毛利家の養子として迎え入れ、家臣団を強化していきました。
三本の矢の教え
「三本の矢」とは毛利元就が、3人の息子(隆元、元春、隆景)に宛てた「三子教訓状(さんしきょうくんじょう)」に記されていたと言われる教えです。
「1本の矢は簡単に折れるが、3本束ねれば折れにくい」すなわち、「皆で協力すればとても大きな力を発揮できる」という意味が込められています。
現代においても様々な場面で使われるほど人気な言葉として受け継がれています。
隠居してからが本番
元就は1546年、50歳の時に隠居して家督を息子の隆元(たかもと)に譲りました。
しかし、実権は変わらず元就が握っており、隠居後も養子縁組政策や婚姻政策を推し進め勢力拡大に尽力しました。更に1555年、60歳の時には「厳島の戦い(VS大内家)」では、日本三大奇襲(※)とも呼ばれる怒涛の奇襲作戦を展開し、大内家を衰退させ中国制覇に王手をかけることになりました。
その後、息子の隆元は1563年(元就67歳)に亡くなってしまいます。
このような辛い出来事があっても元就の心は折れず、家督を継いだ孫の輝元(てるもと)を補佐し、最終的には尼子家をも打倒して一代にして中国地方の覇者となったのでした。
※日本三大奇襲
・河越城の戦い(北条VS上杉)
・厳島の戦い(毛利VS大内)
・桶狭間の戦い(織田VS今川)
毛利元就の年表
- 1497年:安芸国(広島県)に生まれる
- 1511年:元服し、「元就」を名乗る
- 1517年:初陣で武田元繁を討ち取る手柄を立てる
- 1523年:毛利家の家督を継ぐ
- 1525年:大内家の傘下に入る
- 1540年:吉田郡山城の戦い勃発(VS尼子家)
- 1541年:吉田郡山城の戦いに勝利
- 1542年:大内義隆の出雲遠征に従軍するも大敗
- 1546年:家督を隆元に譲る
- 1550年:次男元春を吉川家当主に、三男隆景を小早川家当主にする
- 1555年:厳島の戦いで陶晴賢(大内家)を討ち破る
- 1557年:大内氏を滅亡させる
- 1566年:尼子氏を滅亡させる
- 1571年:吉田郡山城にて死去