日本の歴史上でも屈指の人気人物「織田信長」の雑学についてまとめました。
※諸説あるものや逸話も含まれます。
織田信長の雑学
「うつけ者」と呼ばれた幼少期
「うつけ者」とは現代で言うと「常識のないバカ野郎」というような意味です。
若い頃の信長は型破りな行動や奇抜な服装を好んでいたことから周囲の人間からそう呼ばれていました。
茶道や能を好み、文化的な一面があった
信長は茶道や能を好み、積極的に奨励していたと言われます。
茶道については「名物狩り(全国から茶器を収集)」や「茶会」を催し、家臣の忠誠向上や政治・外交の手段として利用していました。あの有名な茶人「千利休」も重用していました。
能については信長自身も能を舞うことができました。
特に「敦盛」という能の演目を好んでおり、桶狭間の戦いの前夜にも舞ったという逸話があります。
「敦盛」には「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり」という有名な一節があり、信長はこのセリフを好んでよく口ずさんだと言われています。
「天下布武」の本当の意味
「天下布武」とは、織田信長が天下統一を目指す上で掲げたキャッチフレーズのようなものです。
「天下に武を布く」と読み下すことができ、「武力によって天下を平定する」という意味になります。
信長はこの言葉通り、1559年の尾張統一を皮切りに、美濃、近江、伊勢、越前、若狭、紀伊などを平定し、多くの大名を従えていきました。
このことから、「天下布武」は武力によって世の中を従えるという少々乱暴な意味として捉えられるとことがありますが、本当の意味としては「武力によって天下を平定し、戦乱を納め泰平の世を作る」という平和への願いも込められていたと言われています。
黒人の家臣がいた
信長には「弥助」という黒人の家臣がいました。
弥助の出自は不明な点が多いですが、アフリカのモザンビーク出身との説があります。
イエズス会の宣教師によって日本に連れてこられ、信長に会わせたところ、信長がたいそう気に入り、直属の家臣として迎えいれました。信長が本能寺の変で死去するまでの約15カ月間仕え、本能寺の変では信長と共に明智勢と戦ったとも言われています。
信長の身長
信長の身長は「170cm」ほどあったと言われています。
現代でこそ、170cmは一般的な身長ですが、戦国時代当時の日本の平均身長は男性で「155cm」程度と言われているので、当時からする高身長な部類にあったと思われます。
織田信長の年表
- 1534年:尾張国(愛知県)に生まれる
- 1551年:家督を継ぐ
- 1552年:清洲城主となる
- 1555年:尾張国守護代の織田信友を討ち、尾張の実権を握る
- 1558年:弟の信行を討ち、尾張国内の反勢力を抑える
- 1559年:岩倉城を落とし、尾張国を統一する
- 1560年:桶狭間の戦いで東海随一の大名、今川義元を破る
- 1562年:徳川家康と同盟を結ぶ(清洲同盟)
- 1567年:美濃国を平定し岐阜と改名
- 1568年:足利義昭と室町幕府を再興
- 1570年:姉川の戦い(滋賀)で浅井・朝倉連合軍を破る
- 1571年:比叡山焼き討ち
- 1573年:足利義昭を京から追放し、室町幕府を滅ぼす
- 1575年:長篠の戦いで武田勝頼(武田信玄の息子)を破る
- 1576年:安土城築城
- 1580年:石山合戦終結
- 1582年:本能寺の変で明智光秀の奇襲を受け自害