病と闘いながらも、関ヶ原の戦いで石田三成の軍師を務め、その軍略の才を後世に残した武将「大谷吉継」の雑学をまとめました。
※所説あるものや逸話が含まれます。
大谷吉継の雑学
知略と政治力で豊臣政権を支えた
大谷吉継は豊臣秀吉に仕えた戦国武将です。
知略と政務に長けており、戦と政治の場両方で活躍しました。
吉継が豊臣家で残した功績には以下のようなものがあります。
- 秀吉と柴田勝家の闘いで、柴田側の武将を寝返らすことに成功し豊臣軍の勝利に貢献
- 九州の島津家討伐(九州攻め)で、石田三成と共に後方支援を担当し手腕を発揮
- 朝鮮出兵で後方支援に加え、明との和平交渉を行い豊臣軍の撤退路を確保
重病を患ったが最後まで戦い抜いた
吉継は、朝鮮出兵から帰国後に重い皮ふ病(ハンセン病と言われています)を患ってしまいます。
そのため顔全体を白い布で覆っていました。
病のためか、周囲からも冷遇されたと言います。
それでもなお、吉継は前線から退かず活躍の場を求め続けました。
石田三成との信頼関係
九州攻めを共に戦った大谷吉継と石田三成は、互いを深く信頼し合う親友でした。
吉継が病を患った後も、三成はそれまでと変わらず三成と接しました。
茶会では吉継が口をつけた茶碗に誰も口をつけようとしない中、三成だけは口をつけた、というエピソードがあります。
そんな三成のことを吉継は深く信頼していました。
三成が徳川家康に対して挙兵する際、三成は吉継に意見を求めますが、
吉継は3度「戦っても勝ち目はない」と進言したと言います。
それでも三成の決意は固く挙兵を決めた際、吉継は三成を支えることに決めました。
そして、関ヶ原の戦いでその命を散らすまで、三成の軍師として戦い抜きました。
関ヶ原で見せた軍略の才

関ヶ原の戦いは戦力的は東軍と西軍で拮抗していました。
ですが、西軍の「小早川秀秋」の裏切りによってパワーバランスが崩れます。
通常、突然の味方の裏切りが起きた場合、戦場は混乱し総崩れになることが多いです。
しかし、この時吉継は秀秋の裏切りを予測していました。
結果的には敗れることになりますが、この裏切りに対して吉継は対処することができたため、
西軍がすぐに総崩れになることは防ぐとこができました。
このとき、吉継は自力では動けないほど重症化し、神輿に担がれて戦場に出ていたといいます。
そのような状況でも軍略の才は鈍らず、後世に名を残す活躍をしました。
大谷吉継の年表
- 1559年:近江国(滋賀県)に生まれる
- 1582年:備中高松城の戦い(豊臣VS毛利)に従軍
- 1583年:賤ヶ岳の戦い(豊臣VS柴田)に従軍
- 1586年:九州征伐(豊臣VS島津)で功績を挙げる
- 1589年:越前国(福井県)敦賀城主となる
- 1590年:小田原征伐(豊臣VS北条)、奥州仕置に従軍
- 1592年:文禄の役(朝鮮出兵)に従軍
- 1598年:慶長の役(朝鮮出兵)に従軍
- 1600年:関ヶ原の戦い西軍として参戦するが敗北し自害