上杉謙信ってどんな人?上杉謙信の雑学を紹介

上杉謙信像 人物の雑学

武勇に右に出るものなし。義を重んじ、生涯弱き者のために戦い続けた大名、越後の龍「上杉謙信」の雑学をまとめました。
※所説あるものや逸話が含まれます。

上杉謙信の雑学

「謙信」と名乗ったのは晩年

上杉謙信と言えば「謙信」ですよね(当たり前)。
ですが、実は「謙信」と名乗ったのは40歳の時からです。

謙信は「謙信」への改名を含め、3度改名を行っています。

  • 長尾景虎:初名
  • 上杉政虎:関東官領「上杉憲政」の養子になり、上杉姓と「政」の字をもらう
  • 上杉輝虎:上洛した際に、室町幕府将軍「足利義輝」から「輝」の字をもらう
  • 上杉謙信:出家して「謙信」の戒名を称する

「軍神」と呼ばれた武将

謙信は生涯71回の合戦で、61勝2敗8分という驚異的な勝率を誇ります。
その勇猛果敢さから「越後の龍」「軍神」と称されています。
負けた2回のうち1回は、家臣の離反によるものだったと言われています。

また、戦勝祈願の神といわれる毘沙門天を深く信仰し、戦の際には必ず祈願しました。

戦国時代屈指の酒豪

大の酒好きで、家臣たちとの酒宴では誰よりも多くの酒を飲み、飲み会が終わるとまた別の部屋で側近たちと二次会、三次会を行ったと言われています。

出陣中も酒を手放さず、戦場でさえも悠然と酒を飲んでいたという逸話があります。

辞世の句でも「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」と詠み、自身の人生を酒に例えています。この句は、謙信49年間の生涯を「一睡の夢」、天下人としての栄華を「一盃の酒」と例えています。

敵に塩を送る

義を重んじる謙信は、正義や大義のために戦ったと言われています。謙信にとっての「義」とは、私欲や私情にとらわれず、人として正しい道、道理を貫くことでした。

武田信玄が今川氏との争いの中で「塩止め(生きるうえで必要な塩の供給を絶ち、敵を弱らせる戦法)」にあい苦境に陥った際、宿敵である信玄に塩を送ったという逸話があります。
謙信が義を重んじる性格から、困窮する信玄を救うために塩を送ったと考えられます。

これは、相手が苦境に立たされている時に、その弱みにつけ込むのではなく、あえて手を差し伸べることを意味する「敵に塩を送る」ということわざの由来にもなっています。

女性説

謙信は当時の武将としては珍しく、生涯妻をとらず、実の子供もいませんでした。他にも、死因が「大虫」という婦人病の一種だったという説や、謙信の書状の筆跡が女性的で優しい柔らかな筆使いであるという指摘もされています。

また、上杉家の記録に、謙信の性別に関する記述がないことから、女性説が浮上しています。

ただし、この説はあくまで推測の域を出ず、そもそも戦国時代において女性が家督を継ぐことは一般的ではありませんでしたし、「大虫」が婦人病であるという説には医学的な根拠がないという意見もあり、歴史学者の間でも意見が分かれています。しかし、そのミステリアスな人物像は、今も多くの人を魅了し続けています

上杉謙信の年表

  • 1530年:越後国(新潟)春日山城で生まれる
  • 1543年:元服し、長尾景虎と名乗る
  • 1548年:家督を相続する
  • 1550年:室町幕府から越後守護代を命じられる
  • 1553年:第一次川中島の戦い。同年、初上洛
  • 1555年:第二次川中島の戦い
  • 1556年:出家を試みるも断念
  • 1557年:第三次川中島の戦い
  • 1559年:再度上洛
  • 1561年:関東管領に就任し、上杉政虎と改名、第四次川中島の戦い、上杉輝虎に改名
  • 1564年:第五次川中島の戦い
  • 1570年:出家し、不識庵謙信(上杉謙信)と号する
  • 1576年:七尾城の戦い
  • 1577年:手取川の戦い
  • 1578年:春日山城で死去
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