武田信玄は戦国時代の甲斐国(山梨県)を中心に活躍した大名です。
武田家の最大版図を築き、周辺国から「甲斐の虎」と恐れられました。
上杉謙信とはライバルで数々の名勝負を残しています。
この記事では
- 武田信玄の人物像
- 武田信玄が織田信長と徳川家康に恐れられた理由
- 武田信玄の年表
などの雑学を歴史初心者にもわかりやすく解説します。
※諸説あるものや逸話が含まれます。
武田信玄の雑学
「風林火山」の旗印
信玄が用いたとされる軍旗には「風林火山」という言葉が記されました。
これは中国の古典「孫子」の「軍争篇」にある以下の言葉を略したものです。
疾如風(はやきこと風のごとく): 迅速に行動する
徐如林(しずかなること林のごとく): 静観し、機を待つ
侵掠如火(しんりゃくすること火のごとく): 侵攻する時は烈火のごとく激しく
不動如山(うごかざること山のごとく): 守る時は山のようにどっしりと構える
この四つの言葉は、戦いにおける状況に応じた動き方、すなわち戦略の要を表しています。
信玄が孫子の兵法を深く理解し、それを自らの軍旗に用いたことから、広く知られるようになりました。
今もなお残る信玄堤
信玄は治水事業にも力を入れており、特に「信玄堤」は、山梨県甲斐市にある釜無川(現在の富士川)の氾濫を抑え、甲斐国の治水と農業生産の安定化を図りました。
信玄堤は単なる土の堤防ではなく、石垣や出しと呼ばれる水勢を弱める構造物が組み込まれており、当時の最先端技術が用いられていました。
現在でもその一部が残っており、信玄の土木工事技術の高さを物語っています。
実は痩せていた?
一般的に知られている武田信玄の肖像画は、高野山成慶院に所蔵されている肖像画です。
その姿はふっくらとした体格で髭を蓄えた信玄が描かれており、多くの人がこのイメージを持っているかもしれません。
しかし、この肖像画が描かれた年代や、描かれている人物の服装などから、後世の創作である可能性が高く信玄本人ではない別人であるという説が有力になっています。
高野山持明院にも信玄の肖像画が所蔵されており、こちらは成慶院の肖像画とは異なり、痩身で大人しそうなイメージの信玄が描かれています。
苦手なのもは「芋虫」
勇猛なイメージのある信玄ですが、意外なことに芋虫が苦手だったと言われています。
確実な史料は見つかっていませんが、家臣が信玄を試すために芋虫を乗せた皿を差し出したところ、信玄は嫌悪感を示したという逸話があります。
織田信長と徳川家康が最も恐れた武将
戦国時代において最も有名な人物である「織田信長」と「徳川家康」。
この二人が最も恐れた人物とされているのが武田信玄です。
織田信長は天下統一のために愛知県から近畿地方に進出し、ついには足利幕府をも凌ぐ力を手に入れていました。
信長による政権奪取を恐れた足利義昭は全国の諸大名に呼びかけ反信長勢力「信長包囲網」を形成します。
その信長包囲網の筆頭大名となったのが武田信玄です。
武田信玄は当時長野・山梨を中心に大勢力を築き上げており、信長に対抗しうる唯一の勢力でした。
その信玄が足利義昭の呼びかけに応じて京都に向けて軍勢を派遣した時にはさすがの信長も肝を冷やしたでしょう。
そして、武田信玄の恐ろしさを最も感じた人物は徳川家康でしょう。
足利義昭の呼びかけに応じた信玄はまず静岡方面に進軍し徳川家康の領地に侵攻しました。
ここで「三方ヶ原の戦い」が起きるのですが、徳川家康は武田信玄の策略にはまり大敗北を喫することになります。
この時の家康は影武者の犠牲によって命からがら居城に逃げ帰ったほどで家康最大の敗北としても知られます。
しかし、この信長と家康を窮地に陥れた信長包囲網は諸大名の連携の失敗と武田信玄の病死により失敗してしまいます。
武田信玄の年表
- 1521年:武田信虎の嫡男として生まれる
- 1541年:父・信虎を追放し、家督を継承
- 1542年:諏訪氏を滅ぼし、信濃侵攻を開始
- 1548年:上田原の戦いで村上義清に敗北(信玄初の敗北)
- 1553年:上杉謙信との川中島の戦いが始まる
- 1559年:出家し、信玄と名乗る
- 1561年:第四次川中島の戦い(信玄と謙信の直接対決)
- 1572年:三方ヶ原の戦いで徳川家康を破る
- 1573年:病気のため死去